2014年 06月 17日
よく疑問に思うことがある。 「何故、言葉を言葉と認識するのか?」って事だ。 その手の専門家の人に聞けば、一発で回答が出てるのかもしれないが、イマイチ解らない。 同様にして、人が見ている物や感覚と言うのも、言葉として解体されている事に不思議に思う。 例えば「見ている」と言う状態を想像する事ができるが、何時から「見ている」と言う状態を認識し言葉と関連付けたかと言う事だ。 それは「聞いている」とか「噛んでいる」とか根本的に言葉じゃ無くても言い訳だ。 私達は「明るい」とか「暗い」と言う感覚を認識し言葉にしたり、それを感じたりする。 それは根本的に何処から来ているのか? 幼少期の教育ならば、他の国の人が「食っている」と言う感覚や言葉は無いはず。 それは独自に別の意味になっているはずだ。 言ってる事が解りにくいと思うが、寝ている時に寝ていると認識出来ない様に、起きていると言う状態を認識しているそれを言葉にしていると言う事は、実は凄く不自然な事では無いのかと思っている。 人が認識出来る状態に於いて、それを言語化し、共通の認識になっているのはおかしい。 人は死んだ時にその認識が不能になる。つまり言語化出来ない世界に行くのだ。 ならば、何故認識出来る状態の物は、言語化出来るのか? そもそも、認識している事とは何なのか? 認識の概念とは何なのか、概念とは何なのか、イマイチその根本が解らないのだ。 私は私が生きている内に、人は便利な生物になると思っている。 凄く賢い人達が私が疑問視している事を分解し、個々の認識を認識と言う言葉を使わずに認識出来る様にしてくれると思っている。 その内に言葉や感覚と言う物に頼らない物になっていくと思っている。 現在でも人は個々と言う認識を失い、大衆或いは組織化された認識や感覚に頼って生きている。 既に人は考えと言う物を何処かに所属させて考えている。 二重構造。 それは人間が最適化されているからだと思っている。 今は言葉を通して認識を通しての物になっているが、直にというか直接的なフィルターの無い認識になると思っている。 人が想像していた物理的な法則を無視した夢の様な未来では無く、認識その物を解体した利便性だけを重視した未来が来ると思っている。 場所・距離・言葉等が無くなった世界、そういう物が不要になってしまった世界が来ると思っている。 まだ文字だけの世界では視覚と言う認識を利用した世界を想像出来なかった。 そして視覚を得た世界では距離という問題を抱えていた。 距離の問題を解決した世界では、個々の自由意志と言う物が言語化された。 そして、言語化がされればされるほど、その認識は統一され自由意志は縛られて行くことななった。 20年前人は機械に束縛される事は無かった、人が機械を操ろうとしていた。 しかし、便利になった世界では機械が人の生活の殆どに干渉し、機械に操られている。 機械は人が作った物だし、その機械の先に居るのも人だが、人は機械の便利さを覚えてしまった為に、人の間に機械を置く様になった。 10年前人は機械の中に人間の自由意志や意見を言語化する事に勤しんだ。 そうする事が機械の使い道だと思ったからだ。 多くの人間が、これからはそう言う自由意志や意見の尊重される世界がやってくると思っていた。 しかし、今では多くのSNSが自由意志というモノを抹消しようとしているし、それを好んでいる。 人間関係をボタンひとつで便利になったから、考える事も便利になってしまった。 本当ならば会う事も無い人間に惹かれ、思考をカスタマイズし、ネット上に思考するという事を置く。 自分の考えでは無く大衆の考えた「思考」をトレースする世界になっている。 私は次のステップに認識があると思っている。 便利になり過ぎた人間は、あまり好きでは無い。 もっと人は不便になって、自分で考えるべきなのだ。 機械を通して物を見るのでは無く触れるべきなのだ。 本当は共有するべき物等無いのだ。 それでも人は、それらを便利に行おうとする。 もっと簡略化しようとする。 だから、そう言う世界になると思っている。 #
by robr4v4s
| 2014-06-17 23:49
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